おうし座パパの子育てエッセイ

5人の子どもを育てたパパのこころ温まる記録

娘たちが教えてくれたもの

 娘たちが教えてくれたものに吹奏楽の世界がある。私の4人の娘のうち、2人は市内の高校の吹奏楽部に所属していた。そこは全国でトップクラスの高校であり、年間の演奏会も70ステージほどもある有名な高校である。

 2人の娘は3年間の部活動に耐えた。凄いことである。入学当初きびしい練習に耐えられるかと心配したが、部員との会話を聞いているうちに「大丈夫だ。こんなにすばらしい仲間たちがいる」と安心した。

 彼らの練習は一日8時間にも及ぶ。朝6時に登校し自主練習。7時15分集合の後、掃除。7時半から8時半まで練習。昼休みの1時間練習。放課後4時から8時まで部活練習。8時から9時まで自主練習である。土日も一日部活。夏休みも冬休みも毎日部活。トップになるということは、こういうことかと私も思い知らされた。

 私は3年間吹奏楽を指導して下さった先生方に感謝をすると共に、先生方を信頼して娘たちを預けてよかったと心から思う。これ以上の辛いことは、世の中にそうあるものではない。今後、娘たちに辛いことがあっても耐える力があると思うのであった。

孫たちが教えてくれたもの

 娘たちからよく孫の写真や動画がラインで届く。世の中は本当に便利になった。私たちが子供を授かった頃は、孫の写真を親に郵送したり、ビデオを撮ってDVDに編集して手渡したものだった。しかし、今はビデオカメラも高級なカメラも要らない。スマホで写真や動画を撮りラインで気軽に送信できる。また、アプリの「みてね」も頻繁に送られてくるので、離れていても孫の成長を楽しくみることができる。

 動画や写真をみながら、こんなに可愛い孫たちに出逢えて良かったな~と喜び、幸せに浸っている自分がいる。そして、ふと気づかされたことがあった。可愛い孫たちに逢えたという事実と自分の親の存在だ。

 私は父親のことが好きではなかった。けっして尊敬できるような父ではないからだ。しかし、嫌いな親でも親は親。親がいて自分がいる。自分がいて娘がいて、可愛い孫たちがいる。命は繋がっているのだ。

 ラインで次々と送られてくる可愛い孫たちの顔をみているうちに、自分の親の存在に改めて気づいたのだった。
 「たまには両親に会ってきなよ」と言われているような気がした。

歯形

 ある日、四女が私のところへ来て泣きながら訴えた。 「〇〇に噛まれた!」〇〇というのは三女のことである。見ると左腕の手首のあたりに噛まれた跡がある。姉妹(きょうだい)喧嘩はよくあることだ。しかし噛みつくのは良くない。私はすぐに三女を呼びつけ叱った。ところが彼女は「え?」と返事をして、きょとんとしている。わたし知らないよという顔をしているのだ。「謝りなさい」と私が言うと「ごめん」と素直に謝ったのでそれで良しとした。この出来事は今から18年前のことで、2人とも小学校低学年の頃である。

 ところが、最近四女がこのときの喧嘩を思い出して私に笑いながら話をした。事の次第はこうである。2人は喧嘩をしたが、三女は噛みついてはいなかった。軽く噛みつく真似をしただけだそうだ。その後四女は自分で自分の腕に噛みついて、歯形を付け泣きまねをして私のところへ来たそうだ。三女の「え?」といった顔を今でも覚えている。思い返せば2人の話をもっとよく聞いてあげればよかったが、私はまんまと四女の策略にはまったのであった。

 この事実を三女はまだ知らない。きっとこのブログを読んで喧嘩のことを思い出すかもしれない。ごめんね。

一汁三菜

 私の妻は看護師である。仕事で夜勤の日が月に数回あった。夕方仕事へ出かけ翌日午前中に帰宅するのである。そんな勤務のときは、夫である私が夕飯をつくり、子たちに食べさせるのである。私の料理は妻ほどおいしくはないし、レパートリーも少ない。私がよく作るものは、カレーライス、スパゲティー、親子丼、チャーハンとタコライスなどである。

 以前、大晦日やお正月に夜勤のときもあった。妻がつくるお雑煮を思い出しながら、ゴボウを細かく切り落とし、椎茸と鶏肉を小さく切って、出汁をとり、焼いたお餅をお椀に入れ、その上に梅の形にくり抜き甘く煮た人参と柔らく茹でた、ほうれん草と三つ葉を載せてお雑煮を完成させた。また、買ってきた栗きんとんや黒豆、伊達巻や紅白のかまぼこなどを漆黒の扇の形をしたお皿に盛りつけた。紅白のかまぼこは、包丁をいれて可愛いうさぎの形にした。* 思いのほか上手にできたので、ラインで妻や嫁いだ娘たちに画像を送ったりしたこともあった。

 平成25年、和食が日本人の伝統的な食文化として、ユネスコ無形文化遺産に登録されたとニュースが流れた。その夜「よし、今日の夕食は和食にしよう」と私は一汁三菜を作った。わかめとお豆腐の味噌汁、鮭の焼きもの、鶏と大根の煮物そして鰹節を載せたほうれん草のおひたしである。それぞれ綺麗な和食器を使い、それらを子どもたちの前に並べ、一汁三菜の意味も説明した。これに娘たちは大変感動したようだ。今までのような、大きいお皿に盛りつけられたおかずをみんなで取り合うのではなく、子どもたちそれぞれに小鉢や魚用のお皿が目の前にあるのだ。雅な和食の良さを感じてもらえて、親としてとても嬉しかった。

 しかし、食後あることに気づいた。使った食器の量がいつもの倍あったのだ。そのため、食洗器で洗うのに1回で終わらず、2回に分けて洗うことになったのである。作るにも、片づけるにも和食は手間がかかるのである。

* かまぼこうさぎ: ネットで検索すると画像が出てきます。お薦めします。

七五三

 11月のとある日曜日。成田山には七五三を祝う家族がたくさん訪れていた。きれいな着物を着た子どもたちは実に可愛い。私はそんな姿を見ると必ず「おめでとうございます」と声をかける。すると「ありがとうございます」と両親が返事をしてくださる。その家族とはなんの関係もない赤の他人であるが、この様なことばを交わすとき、その家族と一体になったような感覚が味わえ、お祝いを共有したような感じがする。そして、こちらも幸せな気分になり、とても心落ちついた時間となるのである。

 しかし、それと同時に親として申し訳ない気持ちもある。私の子どもたちには七五三をお祝いしてあげられなかったのである。当時は金銭的にも余裕がなかった。そのため、我が家には七五三の写真がない。

 お寺や神社で「おめでとうございます」と声をかけるのは、我が子の七五三の姿を追っているのかもしれない。

バースデイケーキ

 昭和生まれの私は子供のころ、誕生日を祝ってもらったことはない。妻も同じである。私たちの両親の時代はそんな習慣はないのだ。しかし、私たちの子ども達には必ず誕生日をお祝いしてあげた。5人の子どもとクリスマスを含めると毎月のようにケーキを食べていた。特に、12月生まれの娘もいるので、12月はクリスマスケーキと2回も食べていた。

 東京に住んでいたとき、妻が手作りケーキを用意してくれたが、千葉県に移転してからは、近くのケーキ屋さんに注文するようになった。子どもが小さいときは、小さなケーキでいいので手作りできたが、千葉に来たころ子どもは5人となり、大きなケーキが必要となる。そんなときに見つけたのが、フランス菓子の店である。

 部屋を暗くしてロウソクに火をともし、みんなでハッピーバースデイを歌う。ケーキには「〇〇ちゃんおたんじょうびおめでとう」とメッセージが付けられている。我が家では成人を迎えても誕生日のお祝いを続けている。きれいなデコレーションケーキとロウソクの火を消す瞬間の写真を必ず撮るのである。そして、娘たちに花束を添えるのは父親である私の役目である。

服はフェリシモ(しあわせ)

 私の妻はいつも子どもが着る服に気を配っていた。「あそこの家は、子どもが多いいから子どもの服にまで気がまわらないんだわ」と云われないように、意識していたようだ。

 妻は通販のカタログをよく見ていて、注文していた。それらはどれもお洒落で色のバリエーションも多く、またセンスも良い。私が見ても落ち着いた色合いである。カラーコーディネイトも妻の得意分野である。なにしろ絵画が好きで、独身時代には銀座の画廊で絵を販売していたこともある。

 子どもの服に関しては、汚れだけでなく、生地のほつれやへたりにも気をつけていた。また、古くなったものは、すぐに処分していた。息子が小学生のとき、子どもルームの先生から、服のセンスについてお褒めのことばを頂いたこともある。

 仕事でいつもスーツしか着たことのない私には務まらない親の役目だと思う。「ママ、いつもありがとう!」